言葉があふれる
言葉が故郷
言葉が音楽
言葉で描きだす景色の中で、自然の中で
ホッと息をつく
言葉が溢れ出す
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人は何によってポテンシャルを開花させるのか。
人はもしも、その人のまま、その人の最高最善を生きることができたら、ポテンシャルを開花させることができる。
でも、多くのは人はくじけてしまう。
なぜなら、最高最善を生きることは無理だと諦めてしまうから。
諦める原因になるのは、生命力が弱まるからだ。
生命力。
花が咲くように、木々が伸びるように、命は前進し変化する。
なぜなら、それが自然だからだ。
人間にも生命力がある。その生命力を生かしてあげさえすれば、みんな最高最善を生き始める。
なぜ生命力が弱くなるか。
自分を責めるからだ。
自分を責めることは生命力を弱らせる。
他の人の目、世間との比較によって、自分を責め出すとき、
人からの期待に応えられずに自分を責め出すとき、
まるで美点のように思われるから、多くの人はその罠に気がつかない。
でも、それは生命力を弱らせる。
自分を責めずにいたら成長が鈍るかもしれないと危惧する人は、
一度責めないでみてほしい。
ただ成長がはやくなるだけだと気づくから。
生命力を伸ばすもう一つの方法は、自分を愛することだ。
自分を愛するとは、自分のあらゆる感情を受け入れることだ。
悲しいことも、嬉しいことも、恥ずかしいことも、欲望も。
だって、人間だもの。感情はなくならない。
深い悲しみも、生きていればあるでしょう。
どうしようもならないこともあるでしょう。
それをなくすことはできない。
でも、よりそうことはできる。
子供だと思って。悲しかったね、うれしかったね、頑張ったね。
寄り添う。とことん寄り添う。
自分を責めずに、自分を愛する。
その結果、どうなるか。
どうにもならない。
どうにもならないとしても、自分を愛する。
なぜなら、今、愛したいから。
それが命で道理だから。
今、生きたいから。
何のメリットがなくても、自分を愛する覚悟と決意を持つと、
生命力が伸びていく。
もしも目に見えない世界にミラクルがあるとしたら、
それは生命力の強さから起こるのだから。
自分の人生に責任をもてば、それは起こる。
自分の生命力がでてきたら、自分と会話しよう。
自分ととことん話してみる。
どうしたいの?何が好きなの?
どんなことに興味があるの?
まるで子供と話すみたいに、話を聞いてあげる。
寄り添って、会話をして。
そうしたら、いきたいところにいってみよう。
生命力が出てきたあなたなら、きっといける。
自分を信じて、リスクも知って、覚悟してえらんだ道ならば、
どんな道でも正解にしていける。
それが人間と命の道理だから。
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実家のベランダは多摩川沿いにあって、そのベランダからは、
川向こうの山が見えた。
川沿いの土手には、ススキノが広がっていて、その広い土地の上に広がる空には
星空がよく見えた。
まだ10代か20代のはじめ、同じく若かった兄と二人で、
まだ肌寒い冬の星空の下、ベランダに出て語り合った。
そのとき、タバコを吸いながら兄がいった。
「最高のものを求め続けたら、最高のものが手に入るのかな?」
言ってから、兄は少し決まり悪そうにしていた。
わたしはもちろん、「手に入ると思うよ」と答えた。
☆ ☆ ☆
わたしが欲しかった最高のものは、愛だ。
愛する人。
芯から愛する人がほしかった。
もしもその人が見つかったら、私は、その苦しみから成長し、その喜びから成長し、
つまるところ、それは、愛する人を通じて、自分を表現するということだから。
愛する人と自分を表現しながら生きていくことだから、こんなに素晴らしいことはないと思った。
欲しいものはただ一つ。愛する人。
☆ ☆ ☆
ある人が言う。
「人間は、年を重ねた方が絶対に魅力的だ」と。
若い女の子には全然興味がない。中身がないか、あるいは赤ちゃんのようだから。
年をとって、さまざまな経験を重ねて、それから自分以外のことを考えるようになる。
若いってことは本当に自己中心的なんだから、と。
若い人は反論するかもしれない。
でも、それは言い方を変えれば、年をとれば、若い時には想像をつかないくらい
優しくなるということなのだから」
心には価値がある。
その人が立派かどうか、何ができるかどうかは別にして、
誰かの思いやりには価値がある。誰かの一生懸命には価値がある。
その価値が見える人には。
その価値が見えるか?
その価値が見えるには、自分が一生懸命生きること。
一生懸命生きて、他の人の一生懸命に価値を見出すこと。
☆ ☆ ☆
最高のものが手に入るか?
最高のものを求め続けさえしたら、きっと手に入る。
それは美しい心を、美しいと認めるその心が、
きっと可能にしてくれる。
人間賛歌。
今日も誰かの優しさと、一生懸命の人生の続きの一コマをもらって生きている。
全ての人と仲良しにはなれないかもしれない。
でも、誰かの仕事を通じて、私たちは人生を交換することができる。
目を向ければ、心が震える感動に世の中は満ちている。
何も立派なことはしないでいい。
一生懸命に生を全うしたら、それは、心を震わせるほど、素晴らしいことだから。
そうやって、人々が交わしている命に触れて感動するとき、
ああ、今日もわたしは一人でもやると決めたミッションを粛々とやればいいのだと安心する。
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こんにちは。
わかりにくいということを愛している。
それが真実らしく思うから。
切り捨てて切り捨ててわかりやすくしたものよりも。
もしも、誰か、あなたを愛している人がいたら。
あなたはその人の前でいろいろな顔をあらわすと思う。
もしも、誰か、あなたの話を真剣に聞いてくれる人がいたら。
その人はあなたのわかりにくい話を受け止めてくれると思う。
人間は、全部で生きているから
自分をわかりやすく要約しないでいいと思うの。
じっくり話をして、じっくり付き合おう。
自分とも。あなたとも。あの人とも。
とことんいこう。
(ま、わかりやすい方が売れると思うけどね。
そこらへんに私はまだ魅力を感じられないでいる。
でも自分の経済活動のためにその魅力を理解したいわ汗)
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自分がしていること、
いつも意味がないなぁって。
「またこんなことして」って思ってたけれど、
私にとって、無駄なことじゃなくて、
私にとって、意味があるのかもしれないなぁ。
こんなことしてっていうんじゃなくて、
まぁ、いいんじゃないって思ってもいいのかもしれない。
村上春樹が、自分について説明をするより、
目の前にある天ぷらについて、
どう思っているのかを説明するほうが、
自分についての説明になる、と。
自分のことを肯定しようとするとつかみどころがないけれど、
自分がやっていることを肯定すると、
自分のことも受け入れているようになるのかもしれない。
書いていると、時々、
ただ自分の心をこねくり回しているだけのような気もしてくる。
でも、言葉はいつも想いには足らない。
全然、書けないよね。
書けば書くほど、誤解が積み重なっていくだけだったりしてね。
だったら、書くのやめたらいいのにって思うけど、やめられない。
またこんなこと書いてって思うけど、
これもまた私には意味があるからしかたない。
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強くなりたいなぁ。
強い人は優しいから。
わたしの強くなり方は、書いて、書いて、書いて。
自分がなくなるくらいに、書いて、書いて、書いて、死ぬことなんだろうな。
物事は最初から何もかも決まっていて、
自分は大いなるものにただ動かされて生きてるのかもしれない。
強くなりたいなぁ。
強かったら、よかったのになぁ。
このブログだけじゃなくて、
ちゃんとしたものを書いていこうと思うの。
できるだけ。
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こんにちは。
母の日でしたね。
実家に戻っていました。
家族で食卓を囲んで笑っている時間は、とても楽しい。
昔からこういう時間はあったけれど
今のほうがもっとたくさんある気がします。
周りが変わった?
いいえ、自分が変わった。
自分の中にある闇のエネルギーが
どんどん外に出ていった結果です。
そのプロセスは辛いですが、
エネルギーを循環させて外に出せば、
光が現れます。
今まで私の指針は、痛みや闇でした。
目の前にある痛みや闇に対処していくことが道しるべでした。
問題は明確で、できるだけ早く、解決策を探して、
あきらめずに、怖がらずに進むことが重要でした。
でも、今は、問題は不明確です。
どういう方向に進んでいいのかよくわかりません。
光の中から、もっと光のある方へいきたいという欲求に基づいて動くようにルールが変わったみたいです。
でも、光って何?闇を解決することはエマージェンシーな課題ですが、
光に従うって、やらなきゃいけないことなの?
うまく考えられません。
バカになってます。バカになってるなぁ、と思います。
昨日は実家にいてPCを触れませんでしたが、これを書こう!と
思いついたことももう全て忘れてしまいました。
でも、タロットのカードにもあるけど、愚者は決して悪いカードじゃないですよね。
何にも縛られず、自由で可能性を秘めている。
今、バカになりながら、
これまで意識にすらのぼらなかった
自分を縛っているものをジワジワと感じています。
自分の中に張り巡らされたこうすべき・ああすべきがよく見えてきます。
決断した、と思っても、すぐに覆されるような出来事が起きてきて、
自分の判断に自信が持てません。
もしかしたら、決断しようとしている内容が大きすぎるのかも。
人生を決めるような気持ちになっているのかも。
今、私に明らかなのは、自分の手には負えない自分がいること。
たとえば、光になることを恐れる自分や、
自分をどこかで少しだけ貶めたい自分がいること。
自分の足を引っ張る自分は、昔からどこか自分の中にいた。
そういう自分については随分考えてきました。
調子のいい時は、そんな自分の存在は忘れていますが、
いつでもすぐに顔を出す。
こういう自分を一気に捕まえることはできない。
一気に向きあうことはできない気がします。
こういう時は、小さなことから始めていったらいいのかも。
たとえば、今から寝ると決めるとか。笑。
小さな自分の決断をして、それを実行していけたら、
自分を信頼することができるのかも。
あるいは、自分をもっと理解することができるのかも。
自分の核心に近づくことって、怖いものですね。
大げさに言いたいわけじゃないんですけど、なんかね。
でも、こういう繰り返しでしか自分を信頼する術はないんでしょうね。
ハワイで、フィボナッチの先生のエリンが
「恐れと自己不信と、それを乗り越えて自分を信じることの繰り返しで愛に近づく」
というようなことを言っていたのを思い出します。
その繰り返しがヒーリングです。
ヒーラーって、勇気いるよね。
でも、昔、母に「そんなに自分を見つめすぎないで。
そんなに見つめたら、綺麗な点も汚いシミに見えてくるのよ」と言われたことも思い出します。
そんなに見つめすぎないことも時には大事かもしれません。
ね。すぐ判断がぐらつく。
そういう時期なんでしょう。
とりあえず、おやすみなさい。
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こんにちは。
先日、実家に帰ってしまって、書けなかったので、ノートにメモしていました。
それを思い出しながら。
これまでの自分の人生を振り返ると、
(こっから数十行振り返るので☆☆☆まで飛ばしてください・・・)
中学受験をしていいところに入って、
大学もそのままいいところに入るべきなんだろうな、と思いつつ、
「そういうことじゃないんだよなぁ」という気持ちをぬぐえず勉強できず、
適当なところに行き、(でも、いいところに落ちた時は一丁前に落ち込むw)
将来のことなんて考えるのが嫌だったので、
ただ文章が好きだったという理由で文学部に入り、
友達をつくろうという気力もなく、のらりくらりしていたら
ほとんどのサークルの新歓を逃してしまい、
新歓を遅くまでやっていたのが唯一の出版サークルで、
ここでも文章が好きだったので、迷わず入り。
そして、文章が好きということしかわからなかったので、出版社に入りたかったのですが、
自分にはそんなセンスも体力もないため、
友人から出版社の入社に優位らしいという噂の
某大学の某学科を聞き、勉強して途中から入学(ダブルスクール)
エリートとして電通、朝日新聞、NHK、集英社、日本テレビと
のきなみ優秀な就職を決めていく友人たちをしりめに
「そういうことじゃないんだよなぁ」という気持ちをぬぐえず、
真面目に就活で自分の長所を述べたりすることもできず、
でも文章に関わること以外で、まともな社会人になれるとは思えず、
編プロに入りました。(でも、いいところに落ちた時には一丁前に落ち込むw)
入ってから、どうして私は給料とか福利厚生を重視しなかったんだろう?とハッとしたくらいに
安月給でブラックに染まった会社でした。
そこに2年間いる間に鬱で同期は次々退職(先輩後輩含めると退職率75%くらいだったw)。
それから、比較的まともな会社に脱出(転職)。
雑誌をつくりました。
最初の3年くらい?は契約社員で、正社員との差(仕事はこっちが大変なのにボーナスがないとか)に恨みつらみを抱えていました。
そこで6年以上いたと思うんですけど、毎月毎月出すのに疲れて、「休みたい」と口走るようになったころ、適応障害を発症しました。
そこから顔のマッサージをこっそり開始。
そのまま音叉習ったりね。
この流れで、顔のマッサージをやる私とヒーリングをやる私がいます。
☆☆☆
振り返ると、私は「すでに社会にある職業につくのは無理だろうなぁ」と昔から思っていたんだなぁ。
でも、どうしていいかわからなくて、自分をそこそこに偽らずに、そこそこに受け入れてもらえそうな社会の中でのポジションを探していた。でも、ポジションに染まり切ることはできなくて、不安を抱えたままいったりきたり。これまでずっとそうでした。
今が一番、望んでいた形に近くなってきたのかもしれない。
ここに来て、もう一段深く、自分の好きなように生きちゃいなYO!と言われている感じがします。
もう、顔のマッサージとか音叉とかやめちゃえばいいのに、みたいな。
お金稼ぐ必要があるから、やってんじゃないの?みたいな。
んー、そうなのかな?結構好きなんだけどな・・・どうなんだろうというところで揺れます。
実際、お金も必要だしね。
そうやって、自分の内面をサーチしているうちに、
欲望と希望は違うんだなぁと思いました。
欲望は、きっと他の人の目線を通して見ている、夢みたいなもの。
モテたいなとか、人に好かれたいなとか、人を招待できる家に住みたいなとか。
働いていたいなとか、いい会社入りたいなとか、褒められたいなとか、認められたいなとか。
人に感謝されたいなとか、人を助けたいなとか。
これを叶えるのって、なんか試験みたい。
できるの?できないの?っていう他人の目が入る。
他人の目を気にしてできた夢だから、結果のジャッジにも他人の目が入る。
できるの?できないの?
そういうプレッシャーをはねつけてやるのがカッコいいと思う人もいるのだろうけど、
私は萎縮する。
希望は、自分の中から出てきたもの。
自分の中から出てきたものだから、結果を待たずに、希望そのものを生きることができる。
純粋な希望って、なんだろう?
純粋な希望と自分が一体になったら、とてもいいよね。
それを今、いろんな角度から試行錯誤している感じです。
☆☆☆
これまで、瞑想の意味って、よくわからなかったんだけど、
自分の中にある欲望と希望をジャッジャッっとふるいにかけて、
希望をわかりやすく見つけてくれるものかもしれないなぁ。
それなら、わざわざ瞑想する意味があるかも。
(瞑想は、歩きながら、料理しながら、踊りながら、いつでもできると思っているのです・・・一応
てか、最近瞑想瞑想って書いてるってことは、きっと私に必要なんだろうなぁ)
☆☆☆
自分の気づきを夢中でノートにメモしている時、情熱が体を駆け巡り、
まったく寂しくありません。1人だけど、1人じゃない。
夜中に起き上がって、「あ!これだ!」と思ったことをノートにメモする。
そういうことを10代ではやっていました。
朝になって、何書いてたんだろう?と思うこともしばしばですがw
卒論を書いている時、私は三畳一間で一人暮らしをしていたのですが(笑)
あの時も、夢中で書いているときは、何かに守られているような気がしました。
書いている間は、1人だけど1人じゃない。これは私の希望だなぁ、とわかります。
読んでくださっている方、どうもありがとうございます。
では。
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心を透明に・・・静かに・・・
今、自分がどういう状態でいるか・・・?
そう考えただけで、心がざわざわする。
ただ、静かに。クリアに。
求めるものは、瞑想かもしれません。
]]>こんにちは。
先日から、本当に話し合って、話し合って、話し合っています。
話し合って、話し合って、話し合った結果、
こんなに違うのだ、というのがわかったということでしょうか。
価値観が違う。これはどうしようもないな。
哀しいです。
ものすごく哀しい。
でも、哀しみは自分を冷静にしますね。
本当に、精神的なものを求めたくなります。
精神的なものって、1人でやるものなんですよね。
1人のときに、生じるものといいますか・・・
だから、How toにはなりえない。
求める心がなければ、本質は開かれないから。
それでね、ああ、もう、自分の道を歩いていくしかないんだな、と思います。
人に嫌われてもいいや、というのともまた違って。
人に嫌われてもいいや、というのは、人に好かれるという前提もあるのだけど。
そういう前提に立たないところ・・・に行くことになるんだろうなぁ。
自分の道をいったら、ただ自分の道を生きるだけになるから。
真央ちゃん、引退されましたね。
日本のフィギュアスケートの方々って、波動の高い方が多いですよね。
真央ちゃんも、羽生くんも。
出口の見えない話し合いをしているなか、夜、2人の演技をずっと見ていました。
羽生くんは、今もまだ若いけど、10代のときから、周りへの感謝が半端ないです。
以前だったら、どうしてそんなに周りへ感謝できるのだろうと思いますが、
今は、なんだかわかるな、と思います。
その時は、どうして私はそう思うようになったのだろう?と思いましたけど、今はわかります。
自分の道をただ生きている2人の演技を見ていたかったんだな、と思います。
自分の道を生きていたら、感謝って自然に出てくるんだよね。
なんでか?なんでだろう?奇跡みたいに素晴らしい毎日だからじゃないかな。
そして、ものの道理がよく見えるからじゃないかしら。
ものの道理がよく見えたら、人はみな、感謝して生きるものじゃないかしら。
孤独が怖い。賞賛も怖い。
人があれこれ言うことに左右されても、
人を助けることにやきもきしても、
自分は生きられないんだな、と思います。
そういうのに左右されない自分でいるには、
自分を丁寧に見て行く、ということと、
自分の好きなことをやっていくということになるんだと思います。
自分の価値観を見て行く。
大切にしていることに気がついて、それをちゃんと大切にしていく。
自分が自分に与えたことが、自分の手応えと自信になるから。
外の人のいうこと動揺しないぞって、踏ん張ったり、我慢したりすることじゃなくて。
きっと、自然になってくる。
今日、外から家に帰ってきて、
今までで一番、welcome homeでした。
私が自分を受け入れることにしたから、そう感じたのだと思います。
哀しみは、私を冷静にして、本質に戻す。
それがなければ、わからなかった。
そして、まだ始まったばかり。
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