わけのわからない合宿に参加した話(何かをしようとしない)その

  • 2015.09.15 Tuesday
  • 15:07

こんにちは^^fummyです。


「わけのわからない合宿」と書いてますけど^^;、わけわかってます。
わけのわからない「まま」参加しただけで。あちゃ〜。
このタイトルではじめちゃったからこのままですけど、中身はとってもいい合宿でしたよ〜〜〜。



              *         *          *



この合宿で印象的だったことがあります。



体操の1つで、あることをやった時に、きっとそれが引き金になって、私と組んでいた方の感情が溢れてきました。
静かに静かに。でも、目には激しい激しい押さえきれない怒りの感情が浮かんでいます。



瀬戸嶋さんが、その方に寄り添って、私も側にいましたが、このときの私の心は動揺しきり・・・



ヒーラーとして、何か言えるんじゃないか、できるんじゃないか、するべきなんじゃないか・・・・



いくつか声をかけましたが、ご本人は、人とシェアをしたくないときだったのだと思います。
ご本人も、体操を組んでしていた私のせいではないし、その場にいる誰のせいでもないとおっしゃっていたし、その通りだと思います。



ですが、すぐ目の前にいる人の、とてもとても激しい感情を目の前にしたとき、その感情の矛先が私に向けられたものでなくても、身が縮むような震えるような、そういう感覚になりました。



そのあと、しばらくはその方のことが頭から離れず、どうしようと思っていたのですが、舞台を全力で演じているうちに、その方のことは気にならなくなりました。



合宿からの帰り道、時間のある数人で居酒屋で飲んだのですが、そこでその話が出ました。



いろんな話をしました。瀬戸嶋さんの演劇のやり方なども話をしていたと思います。
瀬戸嶋さんは、演劇で「感情を出して」なんていうのはおかしいとおっしゃいます。
そんなことをしてたら、おかしくなっちゃうよ、と。感情は自然なものであって、無理矢理だすものではない、と。


だからね、「誰かに何かをやらせようとか、教えようとかはダメなんだ」と。
それは、ゆらゆら体操でも学んだことです。力を抜くこと、「やろうやろう」とするとかえって力みます。


演劇でいえば、「足をここに出してごらんよ」とか、そういうことで感情はあとからついてくるんだよ、と。


そして、何かが起こったとき、「できることは、一緒にアタフタすることだよ」と。
誰かが本気で怒ったときに、周りの人は、黙るしかできない、それが本当だって、とおっしゃいます。



いつもだったら、私はきっと反論したくなったと思います。
「いや、誰かの怒りを受け止めることも、シェアすることもできるし、何かができるはずだ」と言いたくなったと思います。


でも、その日、目の前の人の激しい激しい怒りに、渦のように引き込まれて身を縮ませていた私は、瀬戸嶋さんがおっしゃることが本当だと思いました。


怒っている人に対して、怒りを鎮めようとしたり、解決しようとしたりしたくなりますよね。


それがいいことだと思うのですが、でも、このときは
人の感情に対して、何かをしてやろうとする嫌らしさ、というものを感じました。



どうして、あの時、私は何かができると思って、やろうとしたのか。



恥ずかしくなりました。



(相手が気持ちをシェアしたいのであれば話は別です)
でも、そうでないときに、何かができると思うなんて、人の気持ちの深さ、重さ、真摯さをむしろ侵していたんじゃないかと思いました。



「何かをやろうとしない」ということは、反対から言えば、「何かが起こったら、一緒にアタフタする」ということでいいのだと思います。



解決策を準備して、構えて、何かをするのは、頭が考えることです。


一緒にその場にいて経験すると、身体はアタフタします。


頭でおさえつけずに、身体に反応をさせると、そうなります。


でも、そっちのほうが、一緒にいるということなのだと思います。





そして、この飲み会で、一人の女の子が、「fummyさんがそのことを気にしてたら気の毒だな、と心配していた」と言ってくれました。それは優しさからきた言葉だと思います。彼女が何回かその言葉を繰り返したときに、瀬戸嶋さんが、


「目の前の人間が、怒りに震えてたら、普通は気にするものなんだよ。だから、その場にいない人間は、そんなこと(「気にするな」と)言っちゃダメなんだよ」と笑いながら、その彼女の肩をたたきました。



この瀬戸島さんの言葉も、私は感動しましたし、こういうことを直接、言い合える関係というのにも感動しました。


誰かのことを、言葉で諭したくなりますよね。わたしが、怒りに震えていた彼女に対してやりたかったことも、そういうことだと思います。「大丈夫。大丈夫だから、あなたの怒りをシェアして」と。


でも、その気持ちに触れていない人、あるいは触れることが許されていない人が、言ってはいけないことがあるのだと思います。
軽々しく、わかったとか理解したとか大丈夫とか言ってはいけないことがあるのだと思います。


どちからかというと、世間一般では、わかったとか理解したとか大丈夫と言うことが良しとされていますけど、そういう言葉の持つ嘘くささがあるのだと思います。


人の気持ちを尊重したときに、人に共感をするのは、頭よりも身体のほうが得意かもしれません。
だから、最近、わたしは身体のことをやっているのかもしれません。


そういうことを考えさせられた合宿でした。



瀬戸嶋さんのHP  :  「人間と演劇研究所」http://ningen-engeki.jimdo.com​


瀬戸嶋さんのBlog  :  「人間と演劇研究所Blog」http://karadazerohonpo.blog11.fc2.com
 

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  • 2017.05.25 Thursday
  • 15:07
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    コメント
    ミカさんに同じような事を私も言われたよ。
    それも全てあなたが自分の思い通りにさせたいから、あなたのエゴで諭したり慰めたり自論を押し付けたりするだけで、寄り添ってはいないんだよ、と。

    例えば道に捨てられたゴミでも、拾われたいゴミもあればそこに在ることで役割のあるゴミもある、とか。

    全託と放棄は違うし、また無関心でもなければ努力をしない事でもないし。またそこらへんの委ねる、が分かりきってはいない状態ではあるな、と思う、自分自身。
    • 夏子
    • 2015/09/16 3:21 PM
    コメントありがと〜!

    そうなんだよね、本当、全託と放棄は違うし、無関心でも努力をしないことでもない・・・

    癒しに関わる人間として、知識とかはもちろん大事で、そのうえで、人として寄り添うみたいな・・・でも、そもそも寄り添うって、親密な関係だから可能なものでもあるから、どうやって様々な人に対して持つのか、バランスの取り方とかは難しくてさ。そこらへんを「こうすればいい」ってしないのが、「いつもアタフタする」っていうことだと思うんだけど、肝が座ってないとできないよなぁ、と思うっす。

    MICAさんの愛は、エゴをびしびし指摘してくれるのも含めて、いつもしびれる。
    • ふみか
    • 2015/09/16 7:14 PM
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